米軍の救援活動 v.8
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嘉手納基地所属の第31救難中隊司令官 グッドマン中佐の現場報告を紹介。
グッドマン中佐の救難中隊は地震と津波の発生から24時間後に現地へ派遣された。
※在沖米国総領事館による情報の提供

写真:仙台空港で救援物資を準備する在沖海兵隊
それは、わずかな支援であったかもしれません。本州で救助支援活動に関わった者として、それは貴重な、心震える体験でした。ハリケーン・カトリーナの衝撃を経験している一人として、今回、日本の人々が受けた苦しみを理解し、出来る限りの手助けをしたいという思いを抱きながら現地へ赴きました。この1週間の任務を終え、すべての救難隊員も私と意を同じくしていると思いますが、もっと多くの救難活動ができたのではないかという思いがあります。
圧倒的な惨状を目の当たりにしながらも、その全てが希望を失わせることばかりではありませんでした。大惨事を放映するニュース映像でとらえる事のできない、真の意味での厳粛さが本州の海岸沿いにありました。被災地は悲惨な状況でした。しかし、印象深く感じたことは、災害直後から日本の人々が適切な行動をとっていたということです。被災者の立ち直ろうとする反発力、そして人々の組織力です。それは模範ともいえる姿で、彼らの困難に立ち向かいながら、救難支援を受け入れる姿勢は、誇るべきものです。
3月13日の午後、私は津波被害の最も大きかった地域上空を飛行しました。日本側の支援要請の合図とともに、我々救難隊は救助に必要な出来る限りの、そしてどの様な活動も行うという意思のもと、救助へ向かいました。しかし、我々がハリケーン・カトリーナで学んだことは今回の震災支援においては機能しませんでした。疑う余地もなく二つの壊滅的な災害は類似している所はあっても、今回の救難任務は異なるものとなったのです。
我々が、「捜索・救助を必要とする孤立した被災者」の現場にたどり着いた時、既に被災者は「救済が必要な避難者」となっておりました。日本人は自ら状況を見極め、グループ(100名から300名の単位で)に分かれ避難所に集まり、食料や飲料水などの必要物資を辛抱強く待っていたのでした。略奪行為や、我先にと列を乱す者も無く、無私無欲だけがそこにあり、誰一人として、自分を救難ヘリでより遠くへ運んでほしいと言い出す者や、安全で暖かい場所へ連れて行って欲しいと言い出す者はなく、多くのものを失った絶望的な状況にも関わらず、彼等は落ち着いて行動していました。
その後、数日間は悪天候のためヘリの飛行活動が妨げられ、けが(大腿骨骨折)を負った年配者一人を救い出すのみでした。被災地で我々のヘリに積んでいた水や物資などを降ろし、被災者が喜んでくれた燃料やタバコなども運びました。私がこの記事を書いている今現在も、HH-60救難ヘリコプターは厳しい現場へできる限りの救済活動を行っています。我々救難隊員は皆、無我夢中で救難任務に没頭しました。ヘリを離陸させるたびに、どこかに生存者はいないかと捜索も続けていました。
被災地での救難活動を踏まえ米国の捜索・救難任務を日本のそれと比較した際、その内容は幅広いものでありました。被災地では、何千人もの被災者を危害のあった地域から後方の避難所へ移動させていました。自衛隊は多忙で、道路の障害物を取り除きインフラ復旧を急ぎ、不可能な任務とも思えるほどの瓦礫の山を目の前に生存者を捜索、救出するという作業を同時にこなしていました。しかも震災直後から、夜間、自衛隊の緊急救援車両と思われる何千もの点滅光を眼下に確認できました。多くの都道府県が被災地の至る所に救出の手を差し伸べており、その努力に感心するばかりです。
今回の救難活動において米国の支援は確かに顕著で、特に飛行場使用を再開させたり、艦船経由で陸上への物資輸送も可能にしました。しかし、最たる努力は、日本人自らの復興力にあると思います。我々も救助支援するという行動に誇りをもちその努力を継続するとともに、復興に対する日本の人々の努力を認識すべきだと思います。

嘉手納基地所属の第31救難中隊司令官 グッドマン中佐の現場報告を紹介。
グッドマン中佐の救難中隊は地震と津波の発生から24時間後に現地へ派遣された。
※在沖米国総領事館による情報の提供

写真:仙台空港で救援物資を準備する在沖海兵隊
それは、わずかな支援であったかもしれません。本州で救助支援活動に関わった者として、それは貴重な、心震える体験でした。ハリケーン・カトリーナの衝撃を経験している一人として、今回、日本の人々が受けた苦しみを理解し、出来る限りの手助けをしたいという思いを抱きながら現地へ赴きました。この1週間の任務を終え、すべての救難隊員も私と意を同じくしていると思いますが、もっと多くの救難活動ができたのではないかという思いがあります。
圧倒的な惨状を目の当たりにしながらも、その全てが希望を失わせることばかりではありませんでした。大惨事を放映するニュース映像でとらえる事のできない、真の意味での厳粛さが本州の海岸沿いにありました。被災地は悲惨な状況でした。しかし、印象深く感じたことは、災害直後から日本の人々が適切な行動をとっていたということです。被災者の立ち直ろうとする反発力、そして人々の組織力です。それは模範ともいえる姿で、彼らの困難に立ち向かいながら、救難支援を受け入れる姿勢は、誇るべきものです。
3月13日の午後、私は津波被害の最も大きかった地域上空を飛行しました。日本側の支援要請の合図とともに、我々救難隊は救助に必要な出来る限りの、そしてどの様な活動も行うという意思のもと、救助へ向かいました。しかし、我々がハリケーン・カトリーナで学んだことは今回の震災支援においては機能しませんでした。疑う余地もなく二つの壊滅的な災害は類似している所はあっても、今回の救難任務は異なるものとなったのです。
我々が、「捜索・救助を必要とする孤立した被災者」の現場にたどり着いた時、既に被災者は「救済が必要な避難者」となっておりました。日本人は自ら状況を見極め、グループ(100名から300名の単位で)に分かれ避難所に集まり、食料や飲料水などの必要物資を辛抱強く待っていたのでした。略奪行為や、我先にと列を乱す者も無く、無私無欲だけがそこにあり、誰一人として、自分を救難ヘリでより遠くへ運んでほしいと言い出す者や、安全で暖かい場所へ連れて行って欲しいと言い出す者はなく、多くのものを失った絶望的な状況にも関わらず、彼等は落ち着いて行動していました。
その後、数日間は悪天候のためヘリの飛行活動が妨げられ、けが(大腿骨骨折)を負った年配者一人を救い出すのみでした。被災地で我々のヘリに積んでいた水や物資などを降ろし、被災者が喜んでくれた燃料やタバコなども運びました。私がこの記事を書いている今現在も、HH-60救難ヘリコプターは厳しい現場へできる限りの救済活動を行っています。我々救難隊員は皆、無我夢中で救難任務に没頭しました。ヘリを離陸させるたびに、どこかに生存者はいないかと捜索も続けていました。
被災地での救難活動を踏まえ米国の捜索・救難任務を日本のそれと比較した際、その内容は幅広いものでありました。被災地では、何千人もの被災者を危害のあった地域から後方の避難所へ移動させていました。自衛隊は多忙で、道路の障害物を取り除きインフラ復旧を急ぎ、不可能な任務とも思えるほどの瓦礫の山を目の前に生存者を捜索、救出するという作業を同時にこなしていました。しかも震災直後から、夜間、自衛隊の緊急救援車両と思われる何千もの点滅光を眼下に確認できました。多くの都道府県が被災地の至る所に救出の手を差し伸べており、その努力に感心するばかりです。
今回の救難活動において米国の支援は確かに顕著で、特に飛行場使用を再開させたり、艦船経由で陸上への物資輸送も可能にしました。しかし、最たる努力は、日本人自らの復興力にあると思います。我々も救助支援するという行動に誇りをもちその努力を継続するとともに、復興に対する日本の人々の努力を認識すべきだと思います。
Posted by
Antenna
at
2011年03月30日
13:53
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